Active Second Life

5月に起こる精神異常と殺害事件

この時期、動物は繁殖期にあって、発情ホルモンの分泌が活発である。

植物も新芽が吹いて枝が伸び、新しい葉が開き、新緑がとっても爽やかである。人も同じように、色々なホルモンが盛んに分泌されていると考える。
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草花は赤や白、黄色やピンク、紫などの美しい花を付け、その蜜を求めてミツバチやチョウが沢山飛んでくる。

本来ならば気候が良い時期なので、誰でも気分が良いはずである。しかし、この時期、木の芽時で知られているように、人の精神が揺らいだり、突然に変わったりする。f0110284_644656.jpg
 
精神異常者が問題ある行動を起こしやすい時期である。

最近、男性が突然に主婦をナイフで刺し、殺害したり、高校生の子供が母親を殺害して、その首を持って警察署に自首してきたりする報道があった。

加害者の精神状態と気候との関係が気に掛かる。

冬から春になってきて、身体から成長ホルモンや発情ホルモンが分泌し、肉体が活発に活動をし始めたことで、加害者の精神状態が変化して事件が発生したのではないかと思われる。

人を含めた生物(動物と植物)が、今まで眠っていた冬の季節から春の季節に移行し、成長ホルモンや発情ホルモンを分泌して活発に行動を始めたことと関係しているに違いない。

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動物と比較して思考を発達したヒトの場合、環境の変化に対して精神(心)と肉体(身体)との間に不具合が生じてしまうと、その初めの頃、精神異常が生じ、このような結果に成ったのであろう。

例の「皐月(さつき)病」も同じ原因に基づく変化と考える。学校を休んだり、仕事を休んだりする。ひどい場合、退学や退職までする。

これらを解決するには、外に出て、太陽にあたったり、運動したりし、心と体のリフレッシュをすることが大切なように思う。

1日ほんの1~2時間の短い時間で良い。体を動かし、新鮮な空気を胸いっぱい吸う。

最初はゆっくりとほぐす。急激な行動は、余計に心と体にアンバランスを生じさせる。


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この時期、天気の良い日は、気温はぐんぐんと上がる。昼過ぎは体感温度が30度を越す程までになる。

半袖が快適である。長袖でいると蒸し暑く、頭がボーとする。着ている上着を脱いで、体の熱を冷ますのが良い。初夏の陽気で頭がボケーとする時期は、心と体にアンバランスを生じさせないため、上着を脱ぐのが良い。

この様な心と体のケアーが、この時期、とっても大切である。

今、深夜の2時半ごろ、外で「ホトトギス」が「トッキョ・キョカキョク」と特徴ある声で鳴いている。

ホトトギスが鳴き出すのは初夏の頃だったように思う。最も美しい鳴き声は、夏休みの林間学校の夜明けごろよく聴かせてくれる。

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5月に良く起こる精神異常と殺害事件のことを考えながら、その事について感じることを書いた。
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# by kouchan-life | 2007-05-27 06:34 | 科学

5月20日、日曜日の奈良薬師寺での思い出

5月20日の日曜日は、お天気が良く、奈良を散策するにはとっても気持ちの良い日でした。
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ポストファミリーの大阪大学大学院のベトナムからの留学生と私と家内の3人で、奈良「西の京」を散策し、大安寺、薬師寺、唐招提寺を訪れました。

JR奈良駅に着いて、桜井線に乗り換え、「京終駅」まで一駅進んで下車しました。ここが、今日、私達が歩く始発の場所でした。

ここから、「大安寺」、「薬師寺」、「唐招提寺」と歩きました。ここには、「歴史の道」との道標がありました。
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外国人のポストファミリーとして、外国人に日本語の表現や漢字など知ってもらう上で、古都奈良を散策するのはとっても良い方法でした。

また、国際交流活動を目的に、外国人の里親として心のケアーをするとき、日本文化が沢山ある奈良などの散策は、とっても良い方法だと言うことも学びました。

たまたま、薬師寺を訪れたとき、この日、このお寺で「河村隆一のコンサート」があり、そのリハーサルが始まっていました。
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私達が訪れたのは、もう、夕方の4時頃で、夜から始まるコンサートのリハーサルの最中でした。

スタッフが通路に長く留まらないで歩いてくれるように促していましたが、私達は薬師寺の金堂(国宝・薬師三尊像がある)を見学している最中で、リハーサルの中で河村隆一が歌っている高くて甘い声、素晴らしいバックのサウンドが聞こえてきました。
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お寺でのライブには、独特の雰囲気があります。河村隆一の甘い声と体に響くサウンドを聴きながらの見学は、何かどきどきとした感動を感じていました。
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偶然の事とは言え、普通ではなかなか出来ない、とっても素敵な経験でした。

むかし、東大寺の大仏殿で、これと同じような経験をした事を思い出しました。

その時の演奏者は、オカリナ奏者の「宗次郎」でした。奈良のシルクロードのイベントに合わせて、宗次郎がオカリナ演奏のライブのリハーサルをしていました。

NHKが同時録音をしていて、そのサウンドの美しさに魅了されました。私は、その時からオカリナのサウンドの美しさ、凄さを教えられ、オカリナに興味を持ち始めました。
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ポストファミリーの留学生「AHN(アン)」さんとの思い出深いコミュニケーションの他に、河村隆一さんの薬師寺でのライブのリハーサルも同時に楽しんだ一日でした。

しかし、その他、大切で忘れていけないことが、このお寺にあります。

それは、著名な日本画伯「平山郁夫」さんが30年かけて描いた、感動的な「シルクロード」の壁画です。

このように、奈良「西の京」の散策では、忘れられない沢山の想い出が出来ました。

こうちゃん
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# by kouchan-life | 2007-05-21 11:33 | 国際交流

韓国旅行「慶州の散策」(第2-2話)

国立慶州博物館の見学は、午前中の時間をたっぷりと取っていた。日本語通訳の案内マイクを借りた。3000ウォンであった。
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慶州は、昔、新羅があった場所である。紀元前から新羅が滅びるまでの生活品や日常品、出土物などが年代順に沢山展示されていた。

石器→青銅器→鉄器→金・銀器へと順に飾られている。

雁鴨池からの出土品、天馬塚からの出土品など、昔の王様の食器、装身具(首飾り、イヤリング、指輪、王冠など)で金製のものが素晴らしかった。金製のものは、王の最高権力を示すもので、その出来栄えや美しさが、凄さや驚きを感じさせる。
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昼食は博物館の軽食堂でそば(にゅうめん)を食べた。そばの味は、まあまあと言うところである。

「たくあん」が付いてきて、面白いと思った。しかし、食べてみると味が薄い。漬物のちょっとピリッとしたものが欲しくなった。お漬物の必要性を学んだような気がした。

慶州博物館には大勢の生徒達が来ていて、会館内で彼等とよく出くわした。面白いことに、何人かから、「こんにちは!」、「Are you from Japan ?」と挨拶を受けた。
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私達を見て、多分、日本人と分かるのであろう。子供達は、小学生の頃から日本語を学んだり、英語を学んだりしていて、言葉を通じてコミュニケーションの練習をしているのかも知れない。

現在、日本では、「外で知らない人に声掛けてはいけない」と教えており、韓国での出来事と比較して、不思議さを感じた。

日本と韓国で、どの様な事情の違いがあるのか知りたくなった。旅行先での子供達の思いつきからの行動からなのであろうか?韓国では、児童がいじめられたり殺害されたりする悲惨な事件が発生してないのだろうか?

午後から、雁鴨池(アナッチ)、石氷庫(ソクピンゴ)、半月城(パンウォルソン)、鶏林(ケリム)、膽星台(チョンソンデ)、大陵苑(デヌンウォン)、天馬塚(チョンマチョン)を観光した。

雁鴨池では、慶州市の職員が日本語の案内をしてくれた。日本語案内は無料である。

慶州市は観光都市として発展するため、各所に市職員を配置し、外国人(多分日本人が大きな目的だと思われる)に観光案内をしているようだ。

彼の日本語の説明は、なかなか上手であった。

今年の夏、慶州市でイベントがあり、彼が市職員として説明をすることになっていると話していた。今、その勉強の真最中で緊張しているが、今も案内しながら緊張の連続なんですと話していた。

雁鴨池は、昔の貴族が池を含めて作った立派な庭園である。建物は一部だけ再建していると話していた。昔の建築物は高層なのだが、費用と技術の関係で、今は平屋の建物として再建しているようだ。
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韓国特有の赤(濃い深い赤か、焦げ茶色)い柱と、青銅色にペイントした独特の鴨居、柔らかい曲線の屋根の形が韓国らしさの特徴を出している。柱の赤色、鴨居の青銅色、屋根の黒色の調和は美しく、池との配位も素晴らしい。

池には沢山の鯉が飼われていた。ハスもあった。池の周りは、曲線が使われていて、海の海岸を想像させるようになっていると説明していた。

膽星台(チョンソンデ)は、現在の天文台である。ここで写真撮影していると、現地の若者(男性)が私達2人のスナップを撮ってあげましょうと話しかけてきた。勿論、お願いした。韓国は高齢者(高齢の旅行者)に対して、とても親切である。
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地下鉄やバスのことを思い出す。私が荷物を持って立っていると、中年も若者もすっと席を立って譲ってくれる。現在、このようなことは日本に殆どない。韓国には、いまだ儒教の精神が残されていて、日本では忘れられたものがある。

大陵苑(デヌンウォン)では、現地の女性が日本語で案内しましょうと話しかけてきた。日本語が上手で親切な女性だと思い、案内をお願いした。この女性の面白い話は後でする。

日本語で大陵苑や天馬塚の詳しい説明を受けた。自分達だけで観光するのと違って、楽しくてよく分かる。
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大陵苑のお墓は、小石を積み重ねて作られていることを知った。土を盛り上げて作っているものだと思っていたが、そうではなく、小石を次々と積み重ねて作ってあった。そのため発掘されることもなく、また、崩れることもないと話していた。

天馬塚だけが発掘されていて、そこの出土品が慶州博物館に展示されてる。金製品が沢山出土していた。

大陵苑を案内してくれた女性は、終わり際に、私は近くで「民芸品店」を経営しているので、立ち寄って欲しいと言った。気に入った物がなければ買っていただかなくても結構ですと付け加えた。

結局、民芸品店に勧誘するための案内だということが分かった。

しかし、さほど「あくどい様子」がなかったので、民芸品店に立ち寄った。家内は、アメジストの数珠を買った。アメジストは韓国が原産の有名な石らしい。勿論、本物だと強調して色合いや形の美しさを説明していた。

私達は、まだ、時間があったので、何かイベントがないだろうかと彼女に質問した。彼女は、「お酒とお餅のお祭り」のイベントがあることを教えてくれた。民芸品店には妹さんがいて、彼女が私達を車に乗せ、そのイベント会場まで連れて行ってくれた。

イベント会場には、慶州の姉妹都市の「奈良県」のブースがあった。ここでは、たこ焼きが販売されていた。日本から来ていた関係者は、「たこ焼き」がとっても人気があるので、例年、たこ焼きを販売していると話していた。

最近、韓国では、イベント会場で「カラオケ大会」がよく催されているように思う。韓国で見ているテレビの多くの番組で、「カラオケ大会」の様子が放映されていた。

この会場でも、「カラオケ大会」が行われていた。
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出演者の多くは、歌が上手だ。歌いながら踊りだす。司会者のお喋りもハイトーンで面白く、彼も、司会した後に踊ったりする。また、会場の人々にカラオケを勧誘する。聴衆の一部も踊り出したりする。

ここは「お酒とお餅の祭り」のイベント会場なので、色々なお酒の試飲ができ、酔っている人々も大勢いるが、韓国人は、もともと、陽気な民族だったのではないかと思う。

私達も、色々なブースで「黄粉餅」や「餡餅」を試食した。どのお餅も美味しかった。試食のお餅で、お腹が一杯になった。

会場では同じようなイベントが催されていた。会場の2、3の箇所で、「おかま」芸人が変装してカラオケを唄い、その後、商品を販売していた。ちょっと可笑しさを感じたが、このようなイベントが流行っているのだと思った。

イベント会場からは、タクシーでKOLON HOTELまで戻った。

旅行先では予測を上回る色々な出来事がある。バスの運転手さんに叱られたこと、現地人から日本語の案内を受けたこと、慶州博物館で子供達から「日本人ですか」と質問を受けたこと、「奈良県のブース」で話した日本人とのコミュニケーション、「カラオケ大会」を見たこと、予想していなかった旅先での出来事を楽しんだ。
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# by kouchan-life | 2007-05-06 15:18 | 旅行

韓国旅行「慶州の散策」(第2-1話)

昨日の釜山は暖かだったが、今朝は肌寒い。小雨が降っている性かも知れない。

今日は、高速バスで慶州まで移動し、慶州観光をするのが大きな目的である。慶州への高速バス停は、地下鉄1号線の終点「老圃洞(ノポドン)駅」にある。

ホテルの前の地下鉄1号線「ジャガルチ駅」から乗車した。

月曜日なので通勤客が多い。日本と同じように多くの男性が新聞を読んでいる。ジャガルチ駅から老圃洞(ノポドン)駅まで約20分掛かった。

何故か、どの乗客も雨傘を座席の下に横向きに置いている。不思議な光景である。忘れたりしないのだろうかと心配していた。

地下鉄老圃洞駅にある高速バスのバス停は、意外と利用客が少なかった。

10:00発の高速バスに乗って、雨の中を釜山から慶州まで移動した。高速バスは、その名の通り、時速100キロ以上のスピードで走っていた。時々、早すぎて危険性を感じた。慶州までの乗車時間は約2時間であった。

慶州も雨が降っていた。タクシーに乗って「KOLON HOTEL」まで行った。

このホテルは、昨日泊まった「Phoenix Hotel」と比較すると格段と大きく、綺麗である。世界遺産に指定されている佛国寺(ブルグクサ)の近くにあり、まわりの景色も格別に美しい。

私達の部屋は8階であった。遠くに慶州の山並みや市街地が見える、眺めの良い部屋であった。バスルーム、ダブルベッド、調度品など全てが上等である。ここで2日間を過すのであれば、快適に過せそうである。
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雨は止む様子はなかった。仕方なく、昼食はホテルで摂ることにした。ホテル内の食堂は綺麗であった。午後1時過ぎであったためか、私達一組が昼食をしているだけであった。

石焼ピビンパッを注文した。韓国風の料理であるので、副菜が沢山付いて来た。これは昨日釜山で食べた焼肉店と同じである。昨日よりは、少し綺麗なお皿に盛られた副菜が運ばれて来た。

一番目に、小麦粉の生地を少し付けて素揚げした、おつまみのような昆布が来た。美味しかった。続いて、野菜サラダが運ばれて来た。ゴマ垂れがかかっていた。なかなか美味しい。

次に、キムチや筑前煮のような煮物、香り物の野菜などがコチュジャンとともに運ばれて来た。最後に、石鍋に入ったご飯、ご飯の中に入れる野菜が盛られた皿が運ばれて来た。
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ご飯の中に野菜を全部入れ、コチュジャンを加えて辛味を付ける。コチュジャンの量は、本人の好みによって加減する。とても美味しかった。

キムチは必ず付いてくる。次第にキムチにも慣れて来た性か、だんだんとはまって来た。辛さの感じ方が違って来ている。唐辛子入りの味噌汁も付いて来た。昨晩と同じような味だが、少し唐辛子の量が少ないのか、食べよかった。

雨が降り続いていたが、元気を出して、佛国寺(ブルグクサ)と石窟庵(ソックラム)に出掛けようと気持ちを切り替えた。

ホテルを出て、佛国寺に向かった。歩き始めて間もなくお寺に着いた。思っていたよりは近く、人出は少なかった。入場料1000ウォンを払って中に入った。

中は広い。建築物は大きくて、建て方は奈良の建物と似ている。見応えがある建物ばかりだ。質素であるが、整然としていて、調和が美しい。
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法隆寺や四天王寺の建物と似ている。法隆寺は607年聖徳太子が開祖し、創建したと伝えられるもので、日本への文化の伝来が感じられる。

雨は止みそうにもない。外気温が冷たくて寒い。風邪を引かないよう上着の襟を立てて、風の入るのを防いだ。随分と暖かさが違う。家内は持ってきたテニスのジャンパーを着た。

それから、タクシーで石窟庵(ソックラム)へ向かった。石窟庵には旅行か課外授業で子供達が沢山来ていた。この時期、韓国では遠足や卒業旅行があるようだ。

石窟庵に置かれていた石仏は、顔つきがひときわ穏やかである。顔形、目や鼻立ちがすっきりして、全体的に調和の取れた素晴らしい仏像だと感じた。

帰りの16:00時発のシャトルバスがなかなか来なく、心配しながら待っていた。雨の降る夕方で、体感温度が0℃ほどまで下がっているかのように感じた。兎に角、体を震わせながら待った。16:00丁度にバスが来た。うれしくなった。

市バスの中は暖かで、生きた心地がした。かなり走って、佛国寺(ブルグクサ)のバス停まで戻った。料金は1人1500ウォンであった。

市バスには韓国人が数人乗車しているだけだった。

夕食は、昼食を食べた場所とは違ったホテル1Fの食堂で韓定食を食べることにした。韓国風の部屋に通された。夕食にきている客は、昼食時と同様に、私達一組のように思った。

韓定食は宮廷料理のように思われる。主菜と色々な副菜が運ばれて来た。肉料理がプルコギで、その他は様々な野菜が一杯あった。口に合わなくて、食べられないようなものは一つもなかった。

私は、プルコギの味付けが好きである。薄すぎもせず、辛すぎもせず、口に合った。キムチも美味しかった。ご飯はもち米が沢山に入った「おこわ」であった。

沢山の美味しいご馳走を食べて満腹になった。韓国料理は野菜を沢山食べるので、健康食だと思った。ただし、全部を食べると量が多く、食べ残すぐらいが丁度良い。

KOLON HOTELには温泉があったが、疲れてしまい、温泉に入る元気が出なかった。

翌日は、1日中、慶州を観光する予定である。世界遺産を含む観光場所が沢山ある。午前中は晴れていてたが、午後は曇りになった。

市バスで市街地に出かけ、国立慶州博物館(クンニッキョンジュパンムルグァン)、半月城、鶏林(ケリム)、膽星台(チョンソンデ)、雁鴨池(アナッチ)、大陵苑(デヌンウォン)、天馬塚(チョンマチョン)を観光した。

朝食を2Fのレストランで摂った。Western styleで、トースト、スクランブルエッグ、トマトジュース、コーヒーを注文した。

コーヒーだけは薄味だ。更に、ぬるくて、とても不味い。韓国にはコーヒー文化が発達していないのであろうか?

昨日の雨は止んで、晴れ間が現れた。しかし、薄着ではまだ肌寒い。ホテルの玄関で記念写真を撮影して、出発した。
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市バスは20分間隔で来るようだが、時刻表がない。日本では考えられない。

しばらく待つとバスが来た。バスに乗り込んで座席にすわった。運転手が車を出して走り出した。

暫くして、誰かが大声で何か怒鳴っている。何かあったのかと前後を見たが、はっきりしない。何かがあったのだろうと思っていると、私達がバス料金を払ってないことに対して、運転手が「バス料金を払って下さい」と言っていることが分かった。

同乗していた韓国の女性が、指合図で、2人で3000ウォンだと教えてくれた。

私は家内からお金を貰って、バスの前の運転手のところまで行って、料金箱にお金を入れた。運転手は納得して、何も言わなくなった。市バスは前払いであることを教えられ、そして、どこまで乗っても1人1500ウォンであることが分かった。

知らない土地で公共の乗り物に乗るのは、スリルがあって、とっても面白い。更に、その土地の事がよく分かるので楽しい。

私は、タクシーに乗るのが安全と分かっていても、出来るだけ公共の乗り物に乗って移動する。その土地を知る上でとっても大事なことだと常々思っている。

市バスには、土地の高齢者が次々と乗車してきた。韓国の高齢者の服装には特徴がある。日本の数10年前のような古い印象がする。

国立慶州博物館の前で降りる予定であったが、気付くのが遅れてしまい、次のバス停まで行ってから下車した。よくある事だ。少し歩いて戻れば、良いことである。

この辺りは、菜の花があたり一面に咲いていた。黄色の絨毯を引きつめたように美しい。
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慶州市が土地を買い上げ、観光都市として美化するために菜の花を植えているらしい。雁鴨池(アナッチ)を案内してくれた市職員の男性が話していた。

1週間ほど前は、桜の花が満開であったようだ。慶州高速バスターミナルからKOLON HOTELまでの道路の両脇は、桜の木が沢山植えられている。桜が満開の時期はとても綺麗だったろうと想像された。

今の時期、はっきりと桜の開花時期を過ぎている。例の市職員の話では、今年の開花時期は少し早かったそうだ。

1停留所過ぎて降りた場所から、菜の花が咲き乱れる道路を歩きながら、旅先での想い出を楽しんでいた。

博物館の方まで戻って来てみると、小学校や幼稚園の生徒が沢山歩いている。

この時期、春の遠足か課外授業かで、この辺りの、世界遺産に指定された観光地に大勢が来ているように思われた。

韓国の幼稚園児の服装には、特徴がある。日本と少し違っていて、カラフルだ。交通事故や迷子にならないようにとの配慮だと思われるが、黄色と黒、黄色とブルー、ベージュとブルー、ベージュと赤など、カラフルな色の組合せである。

元々カラフルな色彩が好きな民族なのだろう。

思い出すが、おばさまの服装も、真紅の上着と黒のパンツ、ショッキングピンクの上着とべージュのパンツなど、どこかそのような色彩の組合せを感じさせるものがあった。

韓国旅行「慶州の散策」(第2-2話)に続く
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# by kouchan-life | 2007-05-06 15:08 | 旅行

韓国旅行 「釜山の散策」

私は、4月15日(日)から4月22日(日)までの8日間、韓国旅行をした。

4月15日に釜山(プサン、Busan)に入り、そこから北に向かって、16日と17日が慶州(キョンジュ、Gyeongju)、18日が清州(チョンジュ、Cheongju)、19日から22日がソウル(Seoul)、20日が春川(チュンチョン、Chuncheon)と進む、韓国を縦断する旅でした。

その長旅の韓国旅行を、順を追って、ブログに書く計画である。第1回は「釜山の散策」としてスタートした。
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大阪の関西国際空港から韓国の釜山までのフライトは、ほんの1時間半分と短い。

韓国は日本の隣国で、近い距離にある。しかし、日本人が韓国旅行を頻繁にするようになったのは、ここ近年の事である。

FIFA ワールドカップの合同開催や文化交流の自由化、韓国ドラマ「冬のソナタ」が日本で放映され、大ブームを起こした事などが切っ掛けで、日韓交流の大波が流れだしたように思う。

近くて遠きは隣国なんでしょうか。

関空で搭乗したASIANA AIRLINES OZ113便 (OSAKA: 11:50発、BUSAN: 13:20着)は小さめの機体で、横列6人程度の座席の飛行機であった。

隣席の女性二人は大阪で商売をしていて、2人とも70歳を越しているとのことであった。韓国ドラマ「冬のソナタ」を観てから、韓国ドラマや韓国旅行にはまってしまったと話されていた。とっても愉快な女性達で、今回、「旅物語」のツアーで韓国に行くようだ。

1時間半程度のフライトで釜山空港に到着した。機内では、予測していたように昼食の機内食が運ばれて来た。お寿司やおそばやデザートまで付いた、程々の味の機内食であった。これで私達は昼食分の費用が浮いた。

釜山空港は小さめの空港であった。しかし、ランディングはスムーズで、気持ちよく着陸した。天候は曇り、思ったよりは暖かさを感じた。

空港からはタクシーで宿泊先の「Phoenix Hotel」まで向かった。タクシーの運転手さんは、空港から出て来たときから親切に重いバゲッジを持って手助けしてくれたので、そのまま彼のタクシーに乗った。

日本語を流暢に話す運転手さんであった。最初は、空港やタクシー乗り場で日本語が通じるかどうか必要以上に心配をしていたが、とても簡単に日本語でコミュニケーションが出来た。少々、驚いた。

タクシーの運転手さんが、「明日はどうされますか?」と聴いて来た。「明日は、釜山の街を観光してから、高速バスで慶州に向かいます。」と答えると、「安くしますから、私のタクシーを利用して慶州を観光しませんか?」と話してきた。商売熱心である。

再度、「高速バスで慶州に向かいます。」と答えたので、彼は、それ以後、今までよく話していた会話を止めてしまった。

釜山は思いのほか暖かく、桜の花は殆どが散っていた。しかし、空港から釜山市街までの道路は、両脇に桜並木があり、桜の花弁がひらひらと散ってタクシーのフロントガラスに当たった。ロマンチックな気分を味わった。また、韓国には桜の木が沢山あることを知った。

ホテルは街の中心地の道路に面して建っていた。古いビジネスホテル様で、ロビーやフロントが2階になっていた。玄関から2階のフロントまでエレベーターがなく、フロントまで重い荷物を持ち上げるのに大苦労をした。

今回、大きい方のバゲッジはとても重かった。日本語教育に関する教科書や参考書を10数冊持ってきたのが原因だった。バゲッジに「Heavy、 27kg」と記載された荷札が付けられていた。

部屋は12階の海岸向きで、バス・トイレの部屋とベッド2台が置かれた部屋の2室があり、窓から釜山港がよく見え、眺めが良かった。値段から考えて、気持ちよく過せそうで、大満足した。

部屋で少しゆっくりしてから、龍頭公園、地下鉄駅、国際市場などの観光に出掛けた。

ホテルのフロントは日本語が上手に話せる人が居て、釜山の市街地図を貰い、ホテルの位置、龍頭公園や国際市場の位置など教えて貰った。

こうして街中を歩き始めると、旅先の気分が次第に落ち着いてくる。

繁華街は凄い人波であった。韓国第2の都市、釜山の繁華街はこのような活気溢れるところなんだと知った。国際市場は、道路の真ん中に露天商が立ち並んでいて、ありとあらゆる日用品や衣服が積み重ねたりぶら下げたりして売られている。
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また、食べ物を売る屋台も沢山並んでいる。チジミ、おでん、餃子などが売られ、街行く人達が立ち寄って、道路で立ち食いしている。

露天商にはNIKE、Adidasなどのブランド品もおかれている。しかし、多分、贋物であろう。お客は、それを承知でショッピングを楽しんでいる。

龍頭公園では釜山タワーに登った。
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釜山の市街地、住宅や公園、港、海、山、色々な風景を眺めながら、釜山は大きな港町であることを知った。展望台の周りを一周して、釜山の街をうきうきした気分で全貌した。本当に大きくて美しい港町である。

釜山タワーの展望台の上で、「ミルク・シェイク」を食べた。喉が渇いていたので、美味しかった。

椅子に座ると注文を取りに、女店員さんが来た。「ミルク・シェイク」を1つ注文した。2人それぞれに注文が欲しかった様子であったが、1人だけの注文であったので、怪訝そうにして戻った。

グラスに2本のストローが入った「ミルク・シェイク」が運ばれて来た。

家内と2人で顔を見合わせて、クスッと笑った。

赤と白のストローがそれぞれ1本ずつ白いミルク・シェイクのグラスの中に入っていた。

何だか映画の一場面を見ているようで、ロマンティックな気分に成っていた。

初めは甘くて美味しく、喉の渇きを潤してくれた。途中から甘さがなくなり、水ばかり飲んでいるようになった。

私は食べるのを止めたが、家内は喉が渇いていた性で、残りの「かき氷」を2本のストローを箸のように使って、最後まで食べた。

急に空腹感を感じ始めた。

夕食を早々と食べる事にした。海鮮市場(チャガルチ市場)の方に美味しいお店がありそうなので、そっちに向かった。

龍頭公園からチャガルチ市場に向かう道路の両脇には、ブティックが沢山立ち並んでいた。高級ブランドの女性の洋服が綺麗に飾られていた。本当におしゃれな洋服ばかりである。

今は、世界中どの街に行っても、殆ど同じような衣服が飾られていて、その国やその街のカラーを感じる事が難しい。

釜山もまた同じである。

通りを渡った先が、チャガルチ市場の入り口だった。食料品屋や焼肉屋が立ち並んだ街並みで、少し小奇麗な焼肉屋に入った。

カルビグイを注文した。豚カルビと牛カルビの両方を注文し、ご飯も注文した。

韓国料理は、主菜のほかに副菜として沢山の野菜や漬物が付いて来る。このところは日本で食べる韓国料理と違っているように思う。

韓国では、ご飯を注文すると「キムチ入りの味噌汁」が付いて来るようである。当然、キムチの漬物が来たし、お肉を包むサニーレタスも付いて来た。

お肉は柔らく美味しかった。お酒は、糖尿病のため注文しなかった。

女性店員への注文は、日本語も英語も通じなかった。しかし、絵を指差しして注文が出来た。

結論として、韓国での食事では、言葉に関して困難は少ないと思った。

大体目的とするものが食べられ、韓国旅行の第1夜の夕食は大満足であった。

驚いた事に、これだけ食べて、2人で20000ウォン以下であった。韓国の焼肉は安いと思った。

帰りは、明日の朝食を確保するため、コンビニに入って、パンとコーヒーとビスケットを買った。

どれも、日本より少し安い。味は、コーヒーがとても甘く感じ、パンやビスケットは日本と変わらないと感じた。

翌朝、慶州に向かうまでに少々時間があった。

ホテルの上から港の方を眺めると、魚市場があり、大勢の人達のざわめいている様子が見えた。朝の散策を兼ねて見学に行った。

ここがチャガルチ市場であった。

朝水揚げした色々な魚が露天で売られていた。新鮮で生きている魚や氷漬けされた魚がある。新鮮な鰯が並べられていた。

お店によって、それぞれ扱っている魚の種類が違っている。干物の魚を売る店もある。貝ばかりや蟹ばかりを扱う店もある。
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通りに面して両脇に、所狭しと、このような店が並んでいる。

中には、生簀で魚を飼っていて、その場で料理して食べさせる店もある。店頭で鉄板で焼いた魚を売っている店もある。

朝の8時過ぎだったので、まだ、お客は来ていない。殆どの店が開店前の準備中であった。
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驚いた事がある。チャガルチ市場では、多くの女性達が立ち働いている。

韓国では女性のパワーを感じる事が多い。先の国際市場の屋台のおばさん、露天商の若い女性、殆どが女性パワーである。

特に、チャガルチ市場の中高年の女性達は凄さを感じさせる。

道路脇で、今朝水揚げした「鯖」の頭と内臓を除き、塩漬けの前準備と思われる体力とスピードを要する作業は、凄いエネルギーである。

暫く、チャガルチ市場のさまざまな風景を眺めていた。

日本の港町でも同じような様子と思われたが、釜山港の場合、規模とパワーの大きさを感じた。

釜山の地下鉄に乗っているとき知った事だが、韓国では、雨傘を座席の下に横に置くのが普通のようである。日本にない風景で、アレッと感じた。

釜山から慶州までの高速バスは心地よく、車窓からの眺めを楽しんでいた。3時間程度のバス移動であった。

釜山の散策では、思っていたよりも美しい韓国を味わった。また、人のうごめきやどよめきに驚き、女性パワー、人懐っこさ、人々の親切さを感じた。
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# by kouchan-life | 2007-04-27 06:08 | 旅行

ルートヴィッヒ美術館コレクション「ピカソ展」のこと

2007年3月1日から3月25日まで、大丸ミュージアム・梅田で、ルートヴィッヒ美術館コレクション「ピカソ展」がありました。

私はピカソが大好きなもので、気持ちを高ぶらせながら、観に行きました。ウイークデーではありましたが、とても沢山の人がピカソの絵に引かれて見学していました。
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ルートヴィッヒ美術館は、ドイツケルン市にあり、ケルン駅と大聖堂に隣接しています。

個人の援助によって発展した市民コレクション型美術館としてはドイツで最も古いものだそうです。

現在、ルートヴィッヒ美術館は、アグファ・フォト=ヒストラマ、コンサート・ホール、図書館やカフェなどとともに総合芸術施設として一つの建物に統合されています。

事前調査が充分でないままの見学でした。

ルートヴィッヒ美術館コレクションの知識を持っていれば、もっと楽しめる見学が出来たと反省しています。

勿論、ここでの見学が終わってから、会場出口で、ピカソ展の冊子を購入して、いつものように後からの勉強をしました。

いつものように会場入り口では、「ピカソ展」の出展リストをいただきました。このリスト順に、展示品を見学しました。
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ピカソほど20世紀の芸術を具現化した人物はいないと言われます。

彼は、一生涯持ち続けた精力的な創造力は高齢になっても一向に衰えず、まるで永遠に造形し続けることが出来る創造主の化身のようだったと言われています。

多面性を持つピカソの作品は、芸術界における豊な創造力であり、革新の象徴とみなされるようになりました。

また、ピカソは「近代美術」と同義語としてもよく使われます。

ほぼ80年にまたがるピカソの壮大な仕事は、異質な両極の間を悠然と行き来しました。

伝統、革新、変革を統合し、古典とアヴァンギャルドを調和させました。

優美、生きる喜び、官能の喜び、そして戦争の恐怖を語り、ついには絶対的自由と、前進し続ける芸術至上の自由に到達しました。

目で見たそのままの生命に姿形を与えました。その為、ピカソはさまざまな造形的表現方法を駆使しました。

例えば、油彩の他に素描、水彩を描き、膨大なシリーズの版画を繰り返し作成しました。

同時に、陶芸で実験し、古典的手法で粘土を形作り、ブリキ板からフォルムを切り抜いたり、偶然見つけて拾った物を寄せ集め、思いついた新しい創造物を生み出したりしました。

ルートヴィッヒ美術館コレクション「ピカソ展」では、ピカソが作成した広範囲な作品が展示されていました。

その中で、素描、版画が豊富に展示されていた印象を持ちました。

展示画の中では、ピカソが崇拝する神様「ミノタウロス」が沢山描かれていました。

ミノタウロスは頭が猛獣の姿をし、首から下は人の姿をしています。ミノタウロスは、彼の化身のように感じました。

そして、この人のような化身が女性を犯している絵が、私にとって、とても強烈な印象を与えました。
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また、女性の性器が大きく描かれていました。このほか多く描かれていた「裸婦」の絵でも、女性の性器が大きく露骨に描かれていました。

ピカソにとって、女性の性器は何か格別なものとして写っているように感じました。ピカソの中で、女性の性器は、特別な意味を持つ存在だったのかも知れません。

男性の性器も描かれていましたが、女性の性器の方が強烈に感じられました。これは、私が男性であることから来るものだと思います。

「ピエロ」や「アルルカン」、「銃士」が多く描かれていました。また、版画やエッチングも、とても上手であることを知りました。

陶芸も多く展示されていました。彼にとって、作品作りで創造性を湧かせるために、陶芸はとても大切な存在であったように思いました。

油彩、素描、水彩、版画、陶芸、何れも素晴らしく、そして、それらのいずれにもオーラが漂っていました。
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やはり、ピカソは世界の画家の中で存在しなくてはならない「大切な人物」であったように感じました。

今回、ピカソ展の印象を書きました。
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# by kouchan-life | 2007-03-31 03:26 | 文化

「ゲド戦記」宮崎吾朗監督の講演会「わたしの映画わたしの読書」のこと

2007年2月17日(土)、茨木市立生涯学習センターで、アニメ映画「ゲド戦記」の監督・宮崎吾朗さんの「わたしの映画わたしの読書」と題する講演会があり、参加しました。
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私は、アニメ「ゲド戦記」を見ていなく、宮崎吾朗監督のこともまったく知りませんでした。

しかし、私の娘から「ゲド戦記」はとっても面白いアニメだからと教えられていたので、この講演会には、特別に興味を持って出かけました。

講演会では、タイトルの如く、「宮崎吾朗監督が小学生以前から大人になるまでの間、読書の仕方がどのように変化してきたかと言うこと」と、彼がアニメ映画「ゲド戦記」をどのように製作してきたかということにフォーカスして話されました。

ここでは、話の中で、特別に感動した部分を取り上げて書きます。

最初、宮崎吾朗監督が小学生以前から大人になるまでの間、読書の仕方がどのように変化してきたかと言う部分から書きます。

彼は1967年生まれです。当時、子供の絵本が流行っていたようです。そして、バラエティーに富んだ絵が多かったようです。

絵本「こどもの友」シリーズの絵を眺めていたと話されていました。眺めていて、読んでいたのではないと強調されていました。

小学生の時に見た絵本のことをよく覚えていますと話されました。絵本は、目からの視覚情報が刺激的だからと言っておられました。

「見る」、「聞く」、「触れる」など多くの感覚を使うと記憶がどんどん強く認識されて行きます。

テレビの「アニメーション」は「音」と「映像」の2つだから、強く記憶に残ります。アニメーションの監督として感じておられる大切な事なんだと思いました。

次に、「時間の動き」のことを話されました。

大人と子供では、時間の動きが違っていますと言われました。子供が30分と感じているところを、大人は60分の長さに感じるようなことです。子供の時間のほうが短いと言うことです。

また、ご両親の話をよくされました。

両親からは、「テレビアニメは見るな!」と言われて育ちましたと話されました。

映画も、一年間に一回観に行く態度で、その後は、この映画のことを反芻し思い出しながら夢を育んでいましたと話されました。

今の子供は、テレビアニメを一日に何回も見るので、このような反芻して夢を追いかけることをしなくなったと話されました。

昔の方が夢を育むことを多くしたので、この点は、昔の頃の方が良かったと感じました。

小学生の頃は、母親から「本を読みなさい!」とよく言われたと話していました。所沢市に住んでいて、「移動図書館」に良く行ったそうです。推理小説とSF小説をよく借りてきて、読んだようです。

この当時、「本が揃っているところは図書館だ」と思ったと話されました。

中学生の頃は、毎月アニメ雑誌が宮崎家に送られて来たので、それを熟読したと話されました。

毎号のアニメ雑誌の熟読が、「三鷹の森ジブリ美術館」の設立に、とっても役立ちましたと話されていました。

高校生の時は、読むものの幅が広がりましたと言われました。山岳部に所属していたので、新田次郎さんの本に感動したそうです。

「ゲド戦記」は高校生の時に初めて読んだようです。当時、「ゲド戦記」の本が家にあって、父親から進められたと話されました。

大学は信州大学農学部に入学しました。寮ではテレビを持っていなかったので、本ばかりを読んでいたそうです。ノンフィクションの本をよく読んでいたようです。

現在、「本だけはよく読んでいます」と話されました。図書館に行くようになったのは、極めて最近だそうです。

本屋さんの本は、「雑誌に集中していて、面白くない!」と話されました。

まとめると、宮崎吾朗さんは子供の頃は絵本ばかりを眺めていた。しかし、高校、大学と進むにつれ、本を読むようになった。最近は、沢山の本を読んでいます。それもノンフィクションが多いということです。

宮崎吾朗さんの場合、ご両親が本を沢山持っていたので、本が身の回りにあって当たり前だと感じておられたようです。友達の家に行って本がないと、「どうしてかなあー」と感じたと話されていました。

私達の身の回りには、「本が沢山ある環境」って大切だなあーと思いました。

因みに、私の場合、実家に本が殆どありませんでした。そのことが反面教師となって、本を買うのが趣味になっているように思います。
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次に、宮崎吾朗さんの「ゲド戦記」の事について書きます。

2003年秋、「ゲド戦記」をジブリで映像化しないかとの話が持ち上がりました。

当時、宮崎駿は「ハウルの動く城」の作製の真っ最中でした。

鈴木プロジューサーは、良い映画だから、是非、やりたいと心積もりしていたようです。

宮崎吾朗さんには、「若手のオブザーバー」として参加してくれないかと誘われました。

ジブリの映画がヒットすれば、お客さんが「三鷹の森ジブリ美術館」に来ていただけるとの思いがありましたので、「若手のオブザーバー」として参加することとにしたと話されていました。

「宮崎駿」「鈴木敏夫」のコンビで仕事を始めた当時、最初に話題となったのが「ゲド戦記」でした。

宮崎駿がトライしようとしましたが、相手側から断られてしまいました。宮崎駿は、この「ゲド戦記」から大きな影響を受けていました。

こんな経緯があって、若手の人間で「ゲド戦記」の映画作製がスタートしました。

ゲド戦記は、面白くて感動した本であったので、映画制作に色々とアイデアを出したと話されました。
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ゲド戦記は、1巻から5巻までと、外伝1巻があって、合計6冊からなる本です。

1巻「影との戦い」(原作1968年、邦訳1976年)
2巻「こわれた腕環」(原作1971年、邦訳1976年)
3巻「さいはての島へ」(原作1972年、邦訳1977年)
4巻「帰還-ゲゾ戦記最後の書-」(原作1990年、邦訳1993年)
5巻「アースシーの風」(原作2001年、邦訳2003年)
6巻「ゲド戦記外伝」(原作2001年、邦訳2004年)

1巻「影との戦い」が1968年アメリカで出版されました。ゲド少年の内面的な成長が書かれています。

魔法使い「ゲド」の物語で、太古の言葉が魔法の力を発揮します。虚栄心、嫉妬心などから、もう一人の自分が出て来ます。世界は光と影の均衡が大事です。西洋文明の行き詰まりが見られ、内面的、哲学的で、東洋的、道教の影響が現れています。

宮崎吾朗さんは、今、この時代に1巻をやるのか?「心の問題」を取り上げることが本当に大事だろうかと感じていたと話されました。

ジブリ美術館には、若い人達が80人ばかりいます。明るくて、真面目、優しいのですが、心の問題を抱えている人が多かった。自分探しをやり過ぎている人達が多かった。

彼等は、頭で考えるのは得意だが、体で感じて行動するのが下手でした。

「自分探しがテーマであるゲド戦記は、今の時代に良いのではないか」と思いましたと話されました。

3巻「さいはての島へ」では、ゲドは「おじさん」になっています。若い少年と一緒に旅をしています。

テーマは「生と死」です。旅の間、問答をしています。人間のバランスが崩れています。自分がどうしているか分からなくなっています。

3巻の製作を検討しましたが、上手く出来ないと分かったと話されました。

それは、二人で色々と旅をしているが、たいした事件が起きていない。会話によって成り立っている。映画にするには困難だと思ったと話されていました。

テーマ的には良いのだが、映画には難しいと話されました。

2巻「こわれた腕環」は、ストーリーがシンプルで、舞台はずっと洞窟の中です。真っ暗な中です。映画にはならないと思ったと話されました。

4巻以降を読みました。1巻が出て20年以上経ってから書かれました。「ゲド戦記」ファンからは評判が良くないものでした。

ゲドは「おじいさん」になっています。女性達が主人公で話が進んで行きます。

宮崎吾朗さんは,この年齢(約40歳)になって、初めて4巻以降が面白いと気付きました。

ゲドは「引きこもりのおじいさん」になっています。子供がろくでもない子供になっています。

おじいさんはおばあさんと再会し、子供を含めて、再び回復していきます。

生活感が書かれています。哲学的理念でなく、魅力的な短編ばかりが書かれています。

お父さんの宮崎駿さんからは、3巻を基にしたアニメの製作が薦められました。

宮崎吾朗さんは、第3巻を基にしても、第4巻を含めて描きたいと思いましたと話されました。

アニメ映画「ゲド戦記」は、原作通りで、1時間50分、全巻の要素を入れた映画とすることにしましたと話されました。

現在、世界そのものがだんだんと狭くなってきています。世界に不思議が少なくなくなってきています。

世界は未知なものが少なくなって来ていますが、しかし、単純ではありません。東西冷戦のあとも、ややこしい複雑な問題がその中にあります。

大きな状況がある中で、私達は豊になって来ています。何を目標に頑張って行くのが良いのか、若い人達にとっては難しい事です。

若者達は、「親の世代よりは豊になれない」と思っているようです。

従って、昔のような楽天的な冒険物語は作れないと思ったと話されました。

若い人達が主人公の映画としようと思われたようです。

これが冒頭の映画のシーンで、親を殺してしまい、「何であんなことをしたのか分からない」と主人公が話す場面に繋がっています。

人間だから、心と体があります。この心と肉体を均等に保つことが大事である。

世の中は単純ではない。現在、歳を取って、考え方や感じ方が若い頃とは変わって来ました。

今、一番は社会との繋がりを考えていますと話されました。「この瞬間、やれることは何かを考えてやっていくことだ」と話されました。

最後に、将来の夢はとよく聴かれますが、「今、やることを考えるほうが大切です」と答えていますと言われました。
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まとめますと、ゲド戦記作製のコンセプトは、若い人たちを主人公にして、彼等が「心と肉体の均衡を保ちながら生きていくことの大切さ」を描いているように思います。

自分でも回答を持っているわけではない。しかし、「今やることを考えて生きて行くこと」を訴えているように思います。
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# by kouchan-life | 2007-03-03 09:34 | 文化

わたしの躁状態

私は、最近、「テレビ」ってのを殆ど観なくなりました。

これって、その理由が上手く説明できないんだけど、自分が躁状態になって来た時に起こる現象です。
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他からの「テレビ」や「ラジオ」などのインプットがとても耳障りに感じたり、「テレビ」を観る気がしなかったりするんです。

そして、パソコンから情報を発信する行為をします。

メールを書いて出したり、テレビやラジオなどでなく、自分自身で出かけた先から入手した沢山の情報を発信したくてたまらなくなります。

また、「コンサート」や「旅行」や「講演会」に出かけ、そこに人を誘ったり、何かの会、例えば「同窓会」を開催しようとしたりします。 そこで、「デジカメ写真」を撮りまくります。

そして、メイルに添付します。 また、ブログに書いて、写真を貼ります。
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これって、「躁状態」のなせる精神的な活動だと思います。

周りの人が時に迷惑を受けることがあります。

このような「躁状態」がやってくるのは、私の場合、3年か4年に一度で、後は「鬱状態」の時間です。

私の場合、「鬱」と言っても、他の人から観ると「おとなしい」という表現がぴったりの精神的な状態です。

一般的には、「鬱」と言えば、あのうっとしい、何も言わない、テンションの低い、眠りのような状態を想像されますね!

私の場合は、先に書いたように、殆ど静かな、普通の状態なんです。

しかし、自分自身からすると、「何も意見が出せない」、「やる気の低い」状態で、「嫌な時期」です。

でも、他人から観ても、家内や子供から観ても、「鬱状態の私がとても静かな人で良いわ」と言われます。
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人の精神状態って、複雑で、面白いですね!!!

私の精神状態の移り変わりは、面白いです。

何時も、自分自身を分析しながら、「こうやろうとか」、「このように治そうとか」考えて、生きています。
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これでおしまい。

こうちゃん
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# by kouchan-life | 2007-03-01 06:58 | 自然

昨年のノーベル平和賞受賞者ムハマド・ユヌスさんが新党結成の意欲を明らかに

与野党対立が激化しているバングラデシュで、昨年のノーベル平和賞受賞者ムハマド・ユヌス(グラミン銀行総裁)さんが新党結成の意欲を明らかにしました。

政争が続き、汚職が絶えない既存政党への不満の受け皿を目指す模様です。

国民の尊敬を集め、知名度抜群の「ユヌス新党」が総選挙に参加すれば、台風の目になりそうです。
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ユヌス氏は、2月11日、国民に向けた公開書簡を発表しました。

「新党立ち上げに支援を求める」と呼びかけ、「新しいバングラデシュ建設を目指す」と既存の政治との決別を表明しました。

12日には滞在先のインド・コルカタで、「国民が進めと言えば、政治に参加する。危険を冒す用意がある。」と語りました。

同国では、民主化の進んだ1991年以降、バングラデシュ民族主義党とアワミ連盟の、それぞれジア前首相、ハシナ元首相という2人の女性党首のもとで、政権交代を繰り返してきました。

激しい政争の中、政党によるゼネストが、経済や市民生活を麻痺させるとことも珍しくなく、両党とも汚職のうわさが絶えませんでした。

今年1月に予定された総選挙を前に、両党の対立が激化し、暴走も起きました。

大統領が非常事態を宣言して、選挙を延期しました。

その後、政治的に中立な選挙管理内閣が汚職の排除を掲げ、両党の元閣僚らを汚職容疑で多数拘束しました。

当面、捜査を優先させる構えと見られます。「選挙まで半年かかる。」との見通しも出ています。
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短い準備期間で300の小選挙区にどれだけの候補者を送り込めるかは未知数です。

だが、「貧困の銀行」として農村部に約690万人の借り手がいるグラミン銀行の組織力は大きい。
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新党構想について、バングラデシュ商工会議所連盟のホサイン会頭は「政治を質的に変えてくれだろう」と歓迎しています。

一方、ユヌス氏支持者の間には、「政治に首を突っ込まない方がいい」との声も根強いようです。
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# by kouchan-life | 2007-02-21 06:19 | 政治、経済、立法

自分探し

自分探しは、私も、一時期、その事ばかりを考えていた時期がありました。

そんなことを長々と書きます。

その時期は、定年前から定年後数年間(1998年頃から2004年まであたり)です。

定年を控えて、「どのように自分の人生を切り開いていくのか」、「どのような生甲斐を求めていくのか」など大きな課題だったからだと思います。

定年少し前、ニチイ学館というところに3ヶ月間通い、ヘルパー2級の資格を取りました。

私は、もともと、獣医医師の資格を持っていたので、どうしてヘルパーの資格を取るのですかとよく質問を受けました。

当時、その理由や答えを出せないでいました。

定年後は何をしようかと悶々としていました。

しかし、定年時には、3~4つの目標が出来ていました。何故か、自分探しが出来ていました。

その目標を、定年退職時の祝賀会の挨拶にしました。

それは、「今までの仕事時代に出来なかった事をすることだ」とまとめられます。

私は、まず、「会社時代に出来なかった勉強をすること」にしました。

勉強は、「学びの風土が良い」ところでしたかったので、大好きな京都大学を選びました。

私は、会社時代に製薬会社の研究所に勤務し、医薬品の研究開発に携わる仕事をしていました。

それは、医薬品開発における「副作用」の研究です。

特に、生殖発生毒性の試験実施と実験結果のヒトへの外挿(動物に現れた毒性が人に本当に現れるのかどうかを評価すること)に関わっていました。

その関係で、私の会社時代のテーマは、先天異常のヒトにおける発生を評価し、メカニズムを研究することでした。

当時、京都大学医学部の解剖学講座は、この領域の最先端の研究者がおられました。

講座の教授には、研究者仲間として指導していただいていたので、その講座にお世話をお願いし、先天異常のメカニズムの勉強がスタートしました。

でも、我々夫婦が、家内の90歳の母親を世話するという事情が発生し、京都大学での勉強は中止をせざるを得なくなりました。
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次に、JICAで仕事をする機会があって、北京で3週間、中国の若い研究者にGLPのことや生殖発生毒性試験法のことを指導しました。

その間、また、韓国のBIOTOXTECH研究所で研究顧問としての仕事を始めました。

しかし、単身赴任で仕事をしていた関係上、私生活が慣れなかったためか(睡眠障害とキムチ味の食事)、遺伝的なことや年齢的なことが原因してのことか、糖尿病になってしまいました。
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凡そ半年で、韓国から引き上げねばならない結果となりました。

その他には、体力作りや筋肉作りのため、フィットネスジムに通ったり、ソフトテニスを楽しんだりしていました。

2005年になってから、senior volunteerの勉強をするため、大阪府が支援する「シルバーアドバイザー養成講座」に1年間通いました。

専攻は「国際交流活動」としました。

それは、定年後にしてきたことの多くが国際交流活動で、この事をもっと勉強しようと思ったからです。

それは、この事をもっともっとマスターすると、「これからの人生を活き活きとして生活できそうだ」と考えたからです。

現在の私は、ボランティア活動、特に、国際交流の一つとして、外国人への日本語支援をしながら多くの時間を過しています。そして、その事から活き活きとした生甲斐を貰っています。

「自分探し」の話を長々と書きました。

最後に、結論を書くことで終わりにしたいと思います。

自分探しは、あまり先のことは考えずに、「自分のバックグランドに立脚して、したいと思うことを積極的に始めること」のように思います。

その中から最も適したことを選んで発展させると、「活き活きと生甲斐を感じる生活が出来る」と結論します。
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# by kouchan-life | 2007-02-10 07:17 | 国際交流



定年後の第二の人生を活き活きと生きるためのメッセージ
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